生きている限りはしっかり生きる

人間の致死率は100%です。
誰もがいつかは亡くなります。

何だか、いきなり暗い話をするようで恐縮ですが、私は98歳という高齢の母と暮らしているので、そのことを意識せずにはいられません。

本人自身も、90歳を過ぎたころから「今年いっぱいが良いとこかな?」などと言っていましたが、なんのなんの。
とうとう100歳に手が届きそうなところまで来てしまいました。

物忘れや思い込みはありますが、認知症と言うほどのこともなく過ごせているのは、本当にありがたいです。

元々、さほど丈夫な方ではなかったのですよ。
あまり無理できず、私が子どもの頃は学校から帰るとお昼寝している姿をよく見ました。
細く長くを地で行った結果が今なのかもしれませんね。

とは言うものの、体に悪いところがあるならば、治療するのは当然です。
特に高齢者ともなれば、全体的な機能が低下していますから、お医者さん通いで忙しくなってきます。

今は、それこそ内科全般を見てもらっている医師に加え、歯科や眼科にも定期的に通っています。

基本的には特別なことはせず、徐々に衰えていく機能の様子を見ながら経過観察している状態です。
現状維持に努める、ということですね。

もし、がんなどが見つかったとしても、今さら手術は受けたくないと言っています。
まぁ、その気持ちも分かるので、意思は尊重しつつ、寄り添うのが同居している私の努めかなとも思います。

そんなある日、眼科に定期健診に行くと加齢黄斑変性(かれいおうはんへんせい)が進んでいると言われました。
そういえば、このところ「障子の桟(さん)が歪んで見える」とつぶやくことがありました。

加齢黄斑変性とは、網膜の中心部である黄斑に障害が起きる疾患です。
高齢になればなるほど、避けて通れない病気とのこと。

モノが歪んで見えたり、中心部が暗く見えたり、放っておくと失明に至るのだそうです。
治療となれば、「目に注射をするんですよ。」と言われました。

目に注射!
考えただけでも怖ろしい。
眼球注射は、日帰りでできますが手術に該当します。
はぁ、手術かぁ。

実は、2年ほど前にもその兆候が見られるからと、紹介状をもらって手術を実施する専門医の診察を受けたことがあるんです。

その時は、「加齢黄斑変性の兆候は見られるけれど、年齢のことを考えたら、まだ手術するほどでもないと思う。」と言ってもらえました。

医師同士でも考え方やとらえ方が違うんですね。
こちらの先生は、視力を失ってしまったらもう元には戻らないから早めに処置を、とのことなのでしょう。
もう一方の先生は、年齢のことを考えた上で病気の進行具合と手術や通院の負担を配慮されての返事だったと思います。

どちらが良いとも悪いとも言えません。
何ごとでも、答えが一つではないことに選択の難しさを感じました。

あれから2年。
母は2つ年を取り、目の病もその間徐々に進行しています。
検査結果を見ながら、かかりつけの眼科医は言いました。
「もう一度、紹介状を書かせてもらいますよ。失明してからでは遅い。」

再度専門医の診察を受けたところ、
「やるのなら今ですね。」
と言われ、今度はもう、手術を実施せざるを得ませんでした。

ただ、詳しく説明を聞いていくと、月に1回3か月に渡り合計3回眼球注射をしていくとのこと。
なんともまぁ、手間のかかる処置です。

手術後の状態を見るために、通院も必要です。
母の体力的にも、本当に今がギリギリだったと思います。

母には丁寧に事情を説明しました。
「なぁ、お母さん、生きてる間は目が見えなくなったら困るわなぁ。このままほっといたら、見えんようになるんやて。せやから、今回は目に注射をせあかんのやわ。」
と言うと観念したようでした。

今、2回目の注射が終わって少し落ち着いたところです。
「障子の桟のゆがみがマシになった。」
と言って喜んでいます。
想像していたほど怖くも痛くもなかったらしく、本人もホッとしています。

このコラムがアップするころには、3回目の注射も完了していることでしょう。

そうそう、ちなみに病院への送迎は義兄(姉の夫)にお願いしました。
喜んで引き受けてくれましたよ。

みんなのサポートを受けながら、ボチボチで良いので生きている限りはしっかり生きてもらいたい。

そう願わずにはいられない、今日この頃です。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

1957年生まれのシニア世代。 自身の豊富な人生経験を生かした、自分らしく生きていくためのサポートが好評を得る。 得意ジャンルは、対人関係・自己啓発・恋愛。 “何かを始めるのに遅すぎることはない”の言葉通り、いくつになっても新しい人生を切り開いていけることを、身をもって実践している。