みなさん、ご機嫌いかがですか?向井康浩です。
昭和7(1932)年7月8日生まれの母は、先日73歳になりました。同年
代の方より若く見える母も、何かの用事で顔をあわせるたび、老けたな、と感
じます。
今日は、母の話をします。
母は、関西のさる大きな都市の繁華街・新開地の、お米屋さんの娘として生ま
れました。母の実家は当時、商売以外にも借家を持ったりして、地域では名の
知られた家だったと聞きます。
兄弟・姉妹がいっぱいいて、休日には大スター・田中絹代さん主演の活動写真
(映画)を見に行ったり、不自由ない暮らしをしていました。
新開地は、近くに兵器製造を請け負った、三菱や川崎の工場がありました。時
代が戦争で暗転し、空襲が始まると標的にされ、母の家も炎に巻き込まれたそ
うです。
地域の付き合いのわずらわしさを嫌い、また、名の知れた家の者らしく振舞う
のに疲れた一家は、焼け野原に戻らず、この大きな都市の別のところに家を手
に入れ、ひっそりくらしたと言います。(その家は、僕の実家から15分ほど
離れたところでした。)
親子・きょうだいとも、世間体とは違って、家の中ではいさかいが絶えなかっ
たようです。おじ(伯父)のひとりにあたる、きょうだいの一番上の長男が、
成人すると真っ先に家を飛び出し、他のきょうだいたちも同様に離れて行きま
した。
長男が、老いた親の世話をするのが常識とされた時代に、彼がとった行動は通
念上問題ありと見られたものですが、それを貫きました。彼は、遠方から指図
だけして、手は一切貸しませんでした。
ところが、彼は一家がひっそり暮らす、家の財産権だけは主張したので、これ
があとから揉める原因になりました。
母は、空襲の疎開先の農家の次男坊と知り合い、後に一緒になります。この次
男坊が、僕の亡父です。母は、姓が「向井」に変わっても、両親の近くに住み
続けました。
実家には、結婚生活がうまくいかずに、戻ってきた姉妹もいました。
父の仕事が、この大きな都市の自治体公務員で、仕事の都合もあったので、近
くに住みながら、両親や出戻りした姉妹・おば(伯母・叔母)さんたちの世話
をしていました。
「他家に嫁いだ嫁が、実家の近くにいるだけで、他のきょうだいたち、特に長
男(伯父)が何もしないのはおかしい!」
事あるたびに話し合いが持たれ、両親(祖父・祖母)とも亡くなり、身寄りの
なくなった姉妹(伯母・叔母)を長男(伯父)が引き取り、長年のきょうだい
喧嘩が終わったのは、ここ数年のことでした。
長男(伯父)も今では、この世の人ではありません。
半世紀も揉め続け、意地を通しあうとは。しかも、晩年に家庭裁判所で、実家
の財産権だけは主張し続け、泥沼と化しました。身内ほど、揉め事は長引きや
すい?
「争いごとが長引いて、うまくいったためしはない。万が一、巻き込まれたな
ら、できるだけ、すみやかにダメージが少ないうちに短期に収束させるのが好
ましい。」と。
2500年前の中国の兵法書「孫子」でも説くというのに、、、。
父も、確執の深さに母のグチを聞くのが、やっとでした。
母は、いつもひとりぼっちだったのかもしれません。大家族に恵まれたのに、
居場所がなかった。
僕ら子供には、味方でいてほしかった。そんな中で、父と一緒に実家で得られ
なかった幸せな家庭を作ろうと。
その分、僕らに求める期待も大きく、その価値観からはずれることは許されな
かったですね。学歴信仰や終身雇用制が続くと信じられ、いい学校出て、いい
会社に入るのが、人生の成功のステータスシンボルと言われた時代でした。
さらに、父が公務員として出世するにつれ、それにふさわしい家を求められる
ようになりました。父の自治体は当時、時代の先端を行く「株式会社」として
もてはやされたので、注目度も高かったんです。
子育てを通して、欠落感を埋めていたような感じです。表面的には、よくして
もらってるはずなのに、ハートに響くものがない。
「いい子になって、私達の理想や期待に答えなさい。あなたが私達の欠落感を
埋めなさい。」って感じでした。
口癖は「〜してやってるのに。」失敗はすべてこちらのせい。まともに、日常
の出来事を話したり、悩み事を相談した記憶がない。
反抗期にも、反抗はしなかったですね。
両親の世代は戦争中、物がない時代を経験したので、僕らには衣食住で、不自
由のないようにしてくれました。
しかし、それと引き換えに、自分の気持ちを押し殺して生きてきた。なんだか
役割にはまって生きてるような感覚でした。
僕にとって、家族とは見せかけだけの平和で成り立つもので、感情のふれあい
がない、実態をともなわないものだと思ってました。
ん?だからムカイさんは、結婚したくなかったんですか?結婚イコール絶望の
シンボルだったの?うん、なくはなかったと思います。でも今、それは横にお
きましょう。
周囲の方からは、理想を絵に描いたような、憧れのように見られてたから、誰
もそんなこと思わなかったでしょうね。
子供のころ生活した環境が、感情の交流が少なく、そして、父の職場「株式会
社」と呼ばれた自治体の(今も表に出せない)ウラ話も聞かされてるせいでし
ょうか。
現在大阪で過ごす僕は、生まれ育ったこの関西の大都市に、今でも心理的に距
離をとることがあります。あまりいい思い出がないのと、年いってからハート
のリバウンドが来たので(苦笑)。
厳しいことばかり言いながら、母は実家のきょうだい喧嘩で揉めてる。口で言
うことと実際の行動が伴わない。
子に手本を示すことも出来ないものが、親たる資格などあるものか!人の道に
はずれたなら、親が相手でも身をもって正すのが、子のつとめだ、って真剣に
思ってました。
戦国時代の下剋上みたいで、そんなことを考えてた自分がちょっと怖い、なん
て、今では笑えますけどね。
最近は、こう見方をしています。親御さん、って一生何度もなれるわけじゃな
い。彼らも完璧ではなかった、って。
家で一緒に過ごす時間が長かった母よ、もっと他に僕らへの接し方がなかった
のかい?
反面教師のお手本として「私たちきょうだいみたいに、もめるな!」って言い
たかったのだろうか?
それが、母にとってのベストなやり方だった、それしかわからなかったのなら
ば、、、。きょうだい喧嘩の苦労の合間をぬって、何不自由なくすごさせてく
れた母に、感謝の気持ちがわかなくもないのです。
もう、すべて昔のことじゃないか、って。
向井康浩のプロフィールへ>>>