私が離婚をしたのは、三十代の半ばでした。
それまでずっと下を向いていたおもてを、ふとあげた瞬間、目に入ってきたのは、
むき出しにさらされた、真っ白でだだっぴろい私の未来でした。
そのときの私には、その現実がとても恐ろしく、目を背けたくなったのを覚えて
います。
将来に大きな夢を描けるほど若くもなく、かといって、あきらめてしまうには
まだ早い、そんな年齢だったせいもあるかもしれません。
本当に真っ白に感じられたのです。
何もないということは、ある種の恐怖です。
もはや、楽しみやワクワクではありません。
この先の道のりが、急に、気が遠くなるほど長いものに感じられました。
その頭の中では、疑問符がいくつも浮かんできました。
私は専門職を持っていましたし、自分ひとりでも生きていけると、ずっと思っていた
のです。
それなのに、こんな風に感じるようになったのは、いつからなのでしょうか。
社会で生きていくとき、誰かのためにしなければならないことはたくさんあります。
結婚をすると、その意識が強くなるように思われます。
働いて稼いでこなければ、毎日の洗濯や食事をこなさなければ……。
自分がしなければ、誰もするひとがいない。
そんな意識が出てくるように思うのです。
もちろん、それは大切な人のために、自分がしたいからするのですよね?
私も、それは同じでした。
しかし、こちらも人間なので、眠いときもあれば、イライラするときもあるし、いつ
でも気持ちよくできるわけではありません。
そんなとき、やってあげたい、でも、自分もしんどいのに……。
そんな気持ちが出てくることは、日常ではそれこそ、何百回、何千回とあるわけで
す。
けれども、自分のそうした気持ちに従って、子供のお弁当を作らなくて済んだり、
今日の会議を欠席できるひとは、ほとんどないのではないでしょうか。
例え、1回や2回はできても……、毎回のようにそんなことができるはずもありませ
ん。
相手を優先しなくてはならないことは、日常茶飯事です。
その根底にあるものは、相手への思いなので、あえてそれを否定するつもりはありま
せん。
しかし、「とりあえず」そのことを済ませてから、自分の心のメンテナンスに
取り組むひとが、どれくらいいるでしょう。
たいていは、終われば忘れてしまいます。
そして、つぎにまたしんどいと思ったとき、私はいつもこんなことを考えてしまっ
てダメだ、と自分を責めたり、ちゃんとしなさい、と自分を鼓舞してみたり……。
どこかで自分を主張することがわがままのように感じられることすらあるほどです。
そして、どんどん積み重なってしまいます。
毎日のことだから、避けられないし、そこで積み重なる変化にも気づきにくいように
思います。
そのうち、自分のしたいことが分からなくなってしまったり。
したいことはあるけれど、子供優先になっているうちに、自分の人生が子供の上に
のってしまったり。
女性は子供が大きくなって手を離れたと感じ始めたとき、男性は定年が近くなったと
きにこの思いが強くなるようです。
私は残念なことに、離婚になるまで、このことを受け入れることができません
でした。
けれども、少しでも早い時期にこのことに気づき、前向きに取り組めば、より楽に
軌道修正が可能です。
ひとりでも多くのひとに、そうなって欲しいという願いから、私はカウンセリングを
続けています。
どうか、ひとごとだと思わないで欲しいのです。
カウンセリングに寄せられる相談の大半が、「ひとつひとつはたいしたことはなかっ
たのに、積み重ねられた日常のできごと」からきているのです。
たいしたことではないはずなのに、日増しにそのことで頭がいっぱいになること、
ないですか?
だから、時々、自分のメンテナンスをして欲しいんです。
自分は何がしたいと思っていたのかと。
売り上げを達成してほっとした足取りで帰宅するとき、帰りの遅い夫のゴハンをあた
ためているとき。
ときおり、自分に問いかけてみてください。
「あなたは、残りの人生に、何をするの?」と。
山下ちなみのプロフィールへ>>>