生と死

僕は文章を書くときいつも、
机に向かって、その日家族と交わした会話を思い出してみます。
その日の天気のこと、子供の様子、今度観に行きたい映画のこと・・
今日も机に向かって、そんな会話を思い出していると、
ふっと携帯にメールが入ってきました。
「 今日仕事か? 」 その短い言葉は、
小さい頃からずっと一緒だった幼馴染のものでした。


お互い家庭を持ち、仕事が生活の中心を占める様になってからは、
学生の頃のように毎晩のように話をしたり、
若い頃のように酒を飲みながら朝まで語り明かすことも、もう無く、
ただ 数ヶ月に一度、
短いメールの言葉で近況を確かめ合う、そんな関係になっています。
先月彼の母が他界され、
告別式で深々と頭を下げる彼を見たのも、何年かぶりの事です。
駆けつけた幼馴染たちは、
みな、顔のどこかにあの頃の面影は残しているものの、
40代を目の前にしたその姿になっていました。
涙を見せることもなく、その式をしっかりと仕切る彼も、
友人の母を見送る仲間達の心の中にも、
その 死 を当たり前のように・・
ただ厳粛に受け入れていた事が、
僕達がその世代になっていることを実感させてくれていました。
それはいずれ自分の両親が、
そしていずれ自分達が、まちがいなく向かっている先であり、
すべての者の行き先だということを、
受け入れる年齢になったのでしょう。
考えてみれば、
「人はこの世に生まれた瞬間からみなすべて死に向かって歩く」
この先人の言葉の通り、
私達は常に死に向かって今を生きています。
魂は永遠に続くものだとしても、
この世の生と時間にいずれ終わりがくる事は、
すべての人間に共通の真実です。
私達は、この限りある時間をどう受け止めて、
毎瞬、毎瞬を生きていけば良いのだろう?
この世の生の意味や受け止め方は、
人それぞれ違うでしょう。
そしてその歳の数だけ変化するものだとも思います。
私達が若い頃。
足りないものを探し、
満たされないものを見つけ、
日々、悩み、苦しみ、その時間を費やして来ました。
自分の未来をもっと豊かにもっと望む様にするために・・
そして、そんな努力や苦労が今の現実を創り上げました。
「 今よりも未来のために 」そんな時代を生きてきたのです。
ただ歳を重ね死に近づけば近づくほど、
限り有る生を確認し、より生を見つめる様になるのも不思議なことです。
与えられているものに感謝し満足を得ることは、
そんな時代を生きてきた私達には少し難しい事かも知れません。
死を見つめ、
今ある自分のこの世の時間に限りがあること。
そしてその全てが与えられていること。
そんな風に感じれた時、
またひとつ違う生き方を学べる世代になるのでしょう。
また命や生をより深く感じられる世代になるのでしょう。
今日久しぶりに話した彼との会話の中に、
彼が仕事について語っていた言葉があります。
「ただ、今与えられている事に全力を注ごうと思っている。  」
「それが、前向きなのか 後ろ向きなのか 解らないけれど・・」
小さい頃から人一倍 夢が大きく、
若い頃から人一倍 社会に反抗的だったその彼の言葉は、
僕よりも少し早く、
死を見つめ続け、
導き出した、前向きな、
彼の今の 生 の受け止め方のように思います。
※吉原 直人は2007/6月でカウンセリングサービスを退会しました。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

退会しました。