託された気持ち〜父のこと〜

僕の父は、14年前に亡くなりました。
丁度77歳でした。
僕は遅く生まれた子供で、父が47歳の時に生まれました。
父とは、およそ30年間の「つきあい」だった事になります。
父に対しては、子供の頃からいろいろな思いがありました。
僕を随分と可愛がってくれたのは間違いなかったのですが、今可愛がっていてくれていたかと思うと、いきなり僕を叱り出すという事も度々ありました。


子供の僕は、どうして怒られているのかその理由がわからない、以前に同じ事をやっても怒らなかったのに、これぐらいでは怒り出すはずはないのに・・・・といった感覚をよく持ちました。子供の僕から見たら、父と接する事は、どこに地雷が埋まっているか分からない地雷原を恐る恐る歩くような感じだった気がします。地雷を踏まないようにするにはどうしたらいいか、自分なりに傾向と対策を考えて、接していたような気がします。随分と気を遣って接していたような気がします。
また、父と母はよく、激しい喧嘩をしていました。父は短気で激昂するタイプ、母も言い返すタイプでしたので、喧嘩は火に油を注ぐ状態で燃え上がります。
どちらが正しい、どちらが間違っているのかはよくはわかりませんでしたが、リングサイドで見ている僕は、止める事も出来ず、ただただこの喧嘩が早く無事に終わればいいと泣きながら願っていたことを思い出します。
そして、喧嘩の後は、僕はいつも母が僕を置き去りにして家を出て行くのではないか、という不安にかられたものでした。
余談になりますが、この頃の僕の感情パターンが僕の中に根強く残っているんだなぁとつくづく思っています。例えば、父とどう接したらいいか分からないから失敗しないようにあれこれとよく考えてきたので、思考する癖がありました。また、夫婦喧嘩で父(男)が母(女)を傷つけるので、僕の中にある男性性のエネルギーを出すと人を傷つけてしまうのではないかという怖れがありました。あるいは、母が僕を置き去りにして出て行ってしまうのではないかという怖れから、人から見捨てられるのではないかという怖れがありました。
もっとも、そんな事は勘違いで、例えば、母は僕を置き去りにして出て行く事はなく、今でも僕と一緒に暮らしています。
さて、話を元に戻しましょう。
父と僕はそんな関係でしたから、今思えば、僕の中にはずっと父に対する怖れと沸々とした怒りがありました。頭で分かっている意識(顕在意識)ではそのことを認識していなくて、何となく言われたとおりにしたくないと反抗的な態度をとったり、父と喧嘩をしてみたりといった形で現していました。
高校生の頃だったと思います。父と取っ組み合いの喧嘩をした事があります。
原因は何だったのかよく覚えてはいませんが、おそらく、些細な事だったのだろうと思います。父は既に60歳を越えており、僕は血気盛んな年代、まして体も大きいので勝敗は目に見えていました。
父に力で勝ってしまった時、僕はひどく悲しい気分になりました。父ってこんなに弱かったのか、こんなに弱い父を打ち負かしてしまった自分はどんなに悪い自分なんだろう・・・と。でも、無意識では、まだ父に対する怖れや、沸々とした怒りが消えていませんでした。
学生の頃、僕は東京に住んでいたのですが、途中から両親と一緒に暮らし始めました。もともと関西に持ち家があったのですが、父は既に退職して年金暮らしでしたから、経済的な面から2所帯を統合しようという話になりました。
そして僕は学校を卒業すると、そのまま東京で就職し、両親もそのままの状態で、約10年間一緒に暮らしました。
僕が31歳の頃、転職を決意しました。そして、東京での転職先も決まっていたのですが、それまで九州のメーカーと一緒にやっていた仕事があり、九州に来てその仕事を継続してくれないか、と誘われました。色々考えた末、僕は決まっていた転職先を断って、そのお誘いに応じる事にしました。
父は最初、九州行きに反対でした。九州には地縁も血縁も無く、全く見知らぬ土地に落下傘で降りるようなものだからです。勿論、一緒に仕事をやっていた九州のメーカーの人達は親切な方々ですが、プライベートとなると、様々な問題があります。また父は、自分が若い頃を過ごした東京に随分と思い
があったようです。「じゃぁ、ここ(東京)で住んでたらいい」と僕が言うと、父は「そうする」と言っていました。しかし、そんな父もやがて折れて「一緒に九州に行く」と言ってくれました。
2月中旬、東京の知人に見送られて慣れ親しんだ東京の家を出て、最後の東京の夜を銀座のホテルで過ごしました。
そして次の日、僕、父、母の3人は飛行機で別府に向かいました。
東京からの荷物が九州の家に着くにはもう1日かかるので、九州初日は別府の温泉でのんびりしようと思ったからでした。
その日、父は初めて飛行機に乗りました。父は飛行機嫌いで、自分が乗らないのはもちろんの事、家族が旅行などで飛行機に乗るのも反対していました。
姉が新婚旅行で宮崎に行く時も、飛行機は絶対に駄目だと譲らず、結局、姉夫婦は船で宮崎に行ったありさまでした。
父の初めての飛行機体験は、雲の上に出ると全く揺れる事もなく、穏やかな飛行になりました。父もニコニコ顔でした。「この飛行機止まっているのと違うか?」上空から見る景色は、ゆっくりと、ゆっくりと流れていきます。
「もっと早く飛行機に乗れば良かった」「そうやろ、そんな恐いもの違うで」と父と僕。僕は飛行機に乗ってそんな風に父が喜んでくれた事をとても嬉しく感じました。
丁度、父の故郷の上空付近を飛行機が通りました。父の故郷は滋賀県で、琵琶湖の北の方にあります。雪深いところで、その日も名古屋を過ぎた辺りから雪雲が低く垂れ込めていました。しかし、丁度父の故郷の辺りを通過する時には、その雪雲が父の故郷の周辺だけさっと引いた感じで、太陽の光がまるでスポットライトのようにその地域を照らし出しました。白銀の世界に点在する民家、光を反射する琵琶湖の水面(みなも)、それは光輝く光景でした。「あの辺がおやじの生まれた家やなぁ」食い入るようにニコニコ顔で窓から下を見ている父に僕は声を掛けました。初めて飛行機に乗った父は、まさか自分の生まれ故郷を上空から眺めることなどないと思っていたに違いありません。とても、とても嬉しそうに故郷の光景を眺めていました。
別府に着いた夜、宿の露天風呂に父と一緒に入りました。特に何を話すでもなく、僕はただ父の存在を感じていました。九州に一緒に来てくれた事、あれだけ嫌がっていた飛行機に乗ってくれた事、そしてそれを喜んでくれた事を僕は感じていました。
風呂から上がって、僕たちは宿の夕食を親子3人、水入らずに楽しみました。
父も結構お酒が好きな方でしたが、少し体調を崩していた事もあり、その頃はお酒を少し控えていました。しかしその日は特別だからと、2人でたくさんの冷酒を飲みました。これからの九州での生活の事、飛行機が楽しかった事、父の故郷が見えた事などなど、その日の夕食は話題に事欠きませんでした。
夕食が終わって、宿の人が部屋に布団を敷きに来ました。僕と父はまだ飲んでいて、邪魔にならないようにお酒の入ったグラスを持って、2人で和室の横にある椅子席に移りました。母は、トイレに行っていたのか、部屋には居ませんでした。
そして2人で飲んでいる時に、父は急に、ぼそっと「お母さんを大事にしろよ」と言いました。僕は軽く頷いて「わかってるがな」と返事をしました。
僕には、今更言わなくても、という気持ちもありましたし、何か照れくさい感じがしました。
布団を敷き終わったので、僕たちは寝る事にしました。ゆったりとお湯に浸かり、緊張感もほぐれてそれまでの疲れが出たのか、僕はすぐに眠りに落ちました。
翌朝、5時頃だったでしょうか、僕は母の声で起こされました。トイレから帰った父が「胸が苦しい」と言っていて、母が父の胸をさすっていました。
僕は飛び起きて布団の上で父を抱きかかえました。父の顔色がみるみるうちに土気色になっていきます。僕はどうする事も出来なくて、ただ父を抱えているだけで、母に「フロントに電話して、救急車!」と言いました。何かしたい気持ちはありましたが、僕の頭の中で心臓だろうか、脳だろうか、脳だったら下手に動かさない方がいいという言葉がぐるぐると回って、何も出来ませんでした。母はフロントに電話して救急車を呼んでくれました。父の意識がなくなっていきます。救急車に早く到着して欲しい・・・僕と母は一心にそれだけを願っていました。とても、とても長い時間のように感じました。
やがて、救急車が到着し、宿の人と一緒に救急隊員が部屋に入ってきました。
そして、父は担架に乗せられ、僕と母はとるものも取りあえず一緒に部屋を出て、救急車に同乗しました。搬送先を確認する救急隊員の言葉の中に「心停止」という様な言葉が聞こえました。
病院に到着た父は、処置室に入りました。そして誰もいない待合室でただ待つ僕と母。しかし僕にはその時、悲しみはありませんでした。悲しみよりも、しっかりしなければ、という感覚が先に立ちました。そして、僕は姉に電話をして状況を知らせました。
1時間ほど経って、医者が説明に来てくれました。「心臓が止まっていたが、心臓マッサージで心臓は動き出した。しかし、脳に相当なダメージを受けているので、戻っても植物人間になる可能性がある。このまま亡くなる可能性もある」看護婦に案内されて、ICUにいる父と面会しました。人工呼吸器を付けられた父は、あの土気色の顔から赤みを帯びた顔色に戻っていました。今にでも起き出しそうな感じがしました。僕と母とがそばにいる事さえ分かっているようにも感じました。でも、起きあがるでもなく、勿論言葉を交わす事も出来ません。
駆けつけた姉夫婦と合流して、暫く僕たちは別府に留まる事にしました。宿のご厚意により、空いている部屋を割引料金で使わせてもらいました。
そんな中で、僕は一人、引っ越しの荷物を受け取ったり、転入予定の町に転入届を出したり、父の見舞いに行ったりと慌ただしい時間を過ごしました。
入院から7日目ぐらいだったと思います。夜中に電話のベルが鳴りました。
病院からの電話でした。「危ないからきてください」との連絡でした。僕と母、姉夫婦の4人で病院に到着すると、担当の医師が、「ご臨終です。人工呼吸器を外します」と言いました。僕は何の迷いもなく「はい」と答えました。
人工呼吸器を外された父は、穏やかな表情をしていました。
僕はその時初めて、抑えていた悲しみがこみ上げてくるのを感じました。
別府の火葬場は、小高い丘の上にありました。
晴れ渡り、澄んだ空気が心地よい感じで、遠くに別府湾が見えました。
僕は、煙突から出る父の煙を眺めながら、父と最後に交わした言葉「お母さんを大事にしろよ」を思い返し、噛みしめました。そしてその時、父の本当の気持ちがわかったような気がしました。
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この記事を書いたカウンセラー

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恋愛や夫婦間の問題、家族関係、対人関係、自己変革、ビジネスや転職、お金に関する問題などあらゆるジャンルを得意とする。 どんなご相談にも全力投球で臨み、理論的側面と感覚的側面を駆使し、また豊富な社会経験をベースとして分かりやすく優しい語り口で問題解決へと導く。日本心理学会認定心理士。