あの日にあったこと 〜やけどの記憶〜

現在の我が家の周りには高等学校が歩いて数分のところに3校、小学校が1校
、そして幼稚園がひとつあります。
私が‘あ〜、もう少し家でボケッとしておきたいかしら・・・’と考えてい
るような、空気がまだ新鮮な時間帯。既に玄関先の通学路は様々な年齢かつさ
まざまな制服をきた子供たちの声でごったがえしています。
部活の朝練でしょうね、出勤途中の駅に向かう道すがら、すれ違ってなかなか
道を譲ってもらえないのは列をなしてこの季節に半そでのTシャツで元気よく
走る高校生たち。
徹夜しているとよく分かるのですが、夜から徐々に朝はやってきます。
至極当然のことなのですが、いわゆる‘朝に弱い’私は起床時刻には今この瞬
間眠りに落ちておけるのであれば世間様がどうなってもなどどひどいことを考
えてしまうほどです。昨晩どれほど世界平和を願い語り祈るような私であった
としても。。。


それほど、朝に抵抗を感じる私でもさすがにこの学生たちのパワーは強力でさ
てさて今日も一日よい日にしましょっか・・・って渋々ながらテンションをあ
げてくれます。
以前は誰もがそんな存在だったのでしょうね。
既に60代の半ばにさしかかろうとする父親。
私が生まれたのは、彼が20代の後半であったと思います。
私が覚えている若い父は、今よりもずっと大きく(身体だけでなく存在として
もそう感じていたのでしょうね)ある意味ワガママで我が家では一番の権力者
で彼の機嫌と気分次第でこどもである私も天国と地獄を行ったり来たりしてい
たような感覚があります。
彼の人生にもいくつかの紆余曲折と危機的な局面があり、60の声を聞きやっと
彼が自分の居場所を自分の中と家族に見つけることが出来るようになった頃、
父からふと言われたことがあります。
『とてもすまない、と思っていることがある。若い頃のお父さんは確かに自分
のことしか見えてなかった。だからだろうか瞼に浮かんでくるお前の姿は幼少
の頃でなくお前が高校生の頃、俺の職場に来て友達と遊びに行くからよろしく
!とカバンをポンっと置いていった姿からなんだ・・・。それを今は残念に思
う。』と。
私はそれをとても不思議な気分で聞いていました。
ああ、その通り!幼い頃から守ってなんかくれなかったって思っているもの。
私が強くならなきゃってなっちゃったのは、たくさん男性に対して傷ついてる
根源はお父さんあなたのせいよ・・・。ひとりで生きていかなきゃっていつも
思っていたもの・・・。
いつもの私の中の声は私にそう言っていました。
だけど、とてもとても小さいけれど違う声も聞こえていたのです。
違う情景も浮かんでいたのです。
私の背中と右の大腿部には、4歳のときの火傷の瘢痕が30年以上経った今もう
っすらと残っています。
大きな古い田舎の家にお嫁に来た母。古い家はそのままで、キッチンといえる
代物でなく土間に井戸水がでるスペースと昔かまどがあった空間をなんとか改
造してそれなりの台所として使っていて、皆でご飯を食べる居間は料理を運ぶ
のであれ沸かしたお茶ひとつ運ぶのであれ高い敷居を駆け上がりとても大変な
思いをしていた母の姿を覚えています。
ある日のこと、居間の炬燵で母が作ってくれる夕飯を待ちながら絵本を寝転びながら
読んでいた私自身が、炬燵板をわざわざ足で蹴り台上に置いていた熱湯
の入ったやかんがひっくり返りお湯をかぶってしまったのです。
お気に入りの黄色いパンタロンスーツにとっくりのセーターを着ていたあの日
の季節は丁度今頃であったように思います。
自分の目で見ているのだから自分自身を映像として物理的に捉えることが出来
るはずはないですよね。ですが人の記憶はとても不思議で、「あっ!!」と思
ったその次の瞬間に覚えているのは既に映像が変わり、父であったか母であっ
たかが私を抱え、土間先にある蛇口が子供の背ほどの高さにある水道で必死に
なって私に流水をかけ続ける姿と泣き叫ぶ私の姿。
まるで冷静な‘私’が私の肉体を離れ、その情景を第3者的に見ていたような
感覚があります。
大人になるまで、この記憶がどうして私の目で見ているのに第3者の目線なの
だろう・・・という不思議さには気づきませんでしたが・・・。
そして、覚えているのは、暗い庭先と救急車の赤い灯のイメージ、このときに
たくさんの親戚、例えば大好きな親戚のおじさんだったり、がお見舞いに来て
くれたこと、病院のベッドから見える天井の細かい機械的に開けられた穴にず
っと魅入られるように見ていたこと、姉とお揃いで買ってもらった赤い色調の
ガウン、好きな白衣(看護師さん)と好きだけどちょっぴり嫌いな白衣(お医
者様さま、痛いことしますから・・・)、部屋で母と二人だったこと等々・・
・。
そして、何よりも私自身のお守りのようになっていた母から聞かされ続けてい
たお話。
近隣の病院に運ばれたそうですが、あまり小児の整形には明るい病院ではなか
ったようで、両親の目から見ても私になされた処置や看護は満足のいくもので
は到底なかったとの事。
救急で運ばれ、そのまま入院を数日していたのですが、私の様子があまりよく
ならないことに不信感を持った父は病院と交渉するも治療に納得がいかずに夜
中に私を抱え、別の公的な病院へ運び込んだという事です。
後の病院で告げられたのは、やはり小児に与えるような薬も与えておらず、私
も覚えている子供にとっては大きな大きなとても飲みにくそうな錠剤をそのま
ま飲んでいたら生命にも危険が及ぶ可能性もあったであろう、ということでし
た。
映像は何も覚えていません。鮮明に覚えているのは大きな大きな派手な色の二
粒の錠剤だけ。
だけど、母から聞かされていた話だけでなく、脳裏でなく心はしっかりと感じ
ていて‘そのときに父が必死でいてくれたこと、そしてそれが私に向けられて
いたこと’は確かに覚えているのです。
確かに、父親としてたくさんの物を与えてくれたとはお世辞にもちょっとイエ
ナイ時期もありました。だけど、今になって思うのはあの時父が必死で守って
くれたこと、あの事がなかったら、きっと今の私は物理的な意味であれ精神的
な意味であれ居ないんだな。。。ということです。
父自身は、すっかりと忘れてしまっていたようです。^^;
歳を重ね、過去を振り返ったとき後悔というものが晴れた空にかかるうす雲の
ように記憶にフィルターをかけてしまい、自分自身が誰かをとても大切に愛し
た、そんな善行は記憶には残りにくいものなのかもしれません。
だけど、それは普段は感謝もされない、当たり前に朝にはのぼる太陽のように
それでもしっかりと相手の中には光として残っていることも本当は多いのかも
しれません。
太陽は、自分自身が輝いていることも人の命を照らし続けていることも自分か
らは見えないものでしょうから・・・。
大人になった私たちは、自分自身が与えるものがあること、力を持つことばか
りに少し執心しすぎているのかもしれませんね。
受け取り感謝する感受性が、誰かの普段は自分ではたいしたことはないと思っ
ている愛情を映し出す大きな大きな鏡となり、人と人が存在する意味ともなる
のかもしれません。
忘れてました。
父にあのときのことを私の心はいまだに覚えている・・・と伝えることを。
早速、最近少し体調が悪いらしい父にメールを打ちましょうか・・・。
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