たまに取れた平日の休日。
ぼぉぉんやりと浮かぶ湯船の中で考える事。
幸せな光景でも、次に摂る食事の事でも、次のお休みのことでもなく。
深刻でなく淡々と「生と死」について考えを巡らせていたりする。
この‘考える行為’は人口島の端っこの、異様に整備された病院に勤めて以来
の日課のようになっている。
『サバイバルタイム(生存期間)1ヶ月延長・・・』
本来、医学的にこの言葉の意味するところは至って単純明快である。
従来考えられた生命の維持が可能であろう期間に比し、有意に一ヶ月の生存が
可能であった、という意味である。
医療用医薬品であれ、医療用の器械であれ、ある程度決められた手順に従って
行われた試験(もちろん動物で確かめられた後)において、何らかの結果がも
ちろんの事求められる。
至極当然の道理であるが、いわゆる‘効能・効果’と言われるもの、同時に‘
安全性’と言われる結果である。
物質であれ、医療行為であれ、なんらかの結果が得られない限りは、健康保険
に係る医療としては国が認めない、それが現在の医療が世間さまに利用される
前段階での理屈となっている。
余談となるが、世で、海外で流通している様々な医療用医薬品がインターネッ
ト販売などされている実情はこの臨床試験というものが日本国内において実施
されていなかったり、計画中であったり、と日本人における試験結果が未だ評
価されていない実態に依るものであるケースも多い。
殊、現在の医療に対する評価、成績というものは数字に拠るものが大きい。
血圧がなんぼで血糖値がいくら、コレステロールが最近上がってきたみたい、
うちの旦那ってば今年の健康診断でγ(γ―GTP)が高いのよね、毎晩遅くま
で飲んでるからよね、きっと・・・。
病院にかかる、というちょっとした非常事態でなくとも、自然と日常的に学校
の成績や、テストの結果と同じように健康の1指標を扱う事も少なくないと思
われる。
人類であれ、動物であれ、‘病気’と言われる状態は存在する。これも至って
当然のことなのだろうが、ある程度はここからは‘正常’でここからは‘病気
’です・・・と判断せざるを得ないのも実態として当然のことと考えられる。
若い頃にはこの分割した考え方にも耐えられたが、歳を重ねるにつれ二極分化
的な考え方に違和感を覚えるようになった。
20代後半頃から、このような違和感が自分の中で徐々に生まれ始め、混沌とし
た私の左脳は3次元を超えたモノの見方に出口をなくし、明確さが求められる
会社の会議などでは歯切れの悪さに周囲の人をイライラさせることも少なくな
かったように思う。
そういうときに私の記憶は幼少の頃に戻り、「どうしても2進法と10進法が両
立する事が分からない」過去に行き着き、更に周囲の人とのコミュニケーショ
ンを難解に感じてしまう事が多かった。
0の次は1、1の次は2でしょ?でも0に戻るってどういうことなんだろう、だ
って0というのは「無」という意味も含むんだよね・・・。
今になって思うと、あるルールに従った考え方と、観念的な捉え方をごちゃ混
ぜに考えて迷路に入っていた、という事に気づいていなかった事がやっと分か
るのだが・・・。
人体に対して行われる、臨床試験、というものは観念的な結果は求められてい
ない事が多い。この治療法とあの治療法を比較して、何かを指標としてどれだ
け有用性が数値として現れるか、もしくは安全性が担保されているか。
統計処理をして検討するのである。
(もちろんのこと、実施するのは医療従事者であれ、被験者であれ、製薬企業
の社員であれ、人間であるのでなによりもなんらかの不利益や負担、リスクを
想定できうる限り最小限なものとするように多くの決まりがあり配慮がなされ
ているのは当然の事であるが)
おくすりにも、また医療技術にも色んな類のものがある。
抗がん剤はある意味、その病気の進行の具合や病気に伴う苦痛、そして元は自
分の細胞が自分自身を痛めてしまうという病気の特徴をもってしても人にとっ
て恐怖心を強く持たせる病気の一つであろう。
サバイバルタイム(生存期間)というのは、がん(だけではないが)の治療法
の優劣を表現するのにひとつのリアルな数字となっている。
製薬企業に勤めていた当時、この‘サバイバルタイム’という言葉を始めて聞
いた。
病気と治療を扱っているのがやはり日常ではあったので、多少のネガティブな
事象にも慣れてはいたが、私の心に本当の意味は分からないにしろこの言葉は
ゆっくりとだが深く響くものであった。
もしも、一ヶ月、生き延びる事が出来たとしたら。
その状況でただ日常をルーチン化して過ごしていた自分とは、全く違う人生に
対する取り組みが出来るのだろうか。それともやはり1日を以前と同じ1日とし
てしか過ごせないのか。日常的に過ごす事に意味を見出せるだろうか。
自分や自分の周囲の人にとって、何年先か何十年先か、それは分からないけれ
ど、そういう現実は今もどこかであるのだ、という当たり前すぎる事に気づき
衝撃を受けた。
私にとって‘生きる事を選んでくれたのではないか’と思っている一人の重要
な人は母である。
彼女は60代の手前で、大きな交通事故に出遭った。救命センターからの直接の
第一報に驚いた私が‘(命は)大丈夫なんですよね?’との問いかけをしたの
に対し、職員の方は瞬間だけ躊躇されながらも‘すぐに来てください。’と
はっきりと答えてくださった。
その言葉で状況を把握し、感情を目いっぱいコントロールしながら連絡すべき
ところに連絡し、東京への出張をキャンセルし救命センターに向かった。
処置中とのことですぐには状況が分からず、弱っている父を励まし(パートナ
ーというのはこういうときにやはり冷静ではない・・というのを思い知ったが)
母との面会を待った。
会いはしたが、もちろんのこと意識はなく多くの傷は見えないように大切に保
護してくださっているがベッドサイドの血圧計はとても低い値を示していた。
病状は各科の医師が忙しい処置の時間を縫って説明くださるが、先行きに関し
てはどなたも口にされない。安定せぬまま入院先を訪ねる日々の最中、うとう
とと自宅で寝ていたときに夢を見た。母がどこかにいくような感じがする、た
だそれだけの感覚を覚えており唯一私は心の中で絶叫したように思う。
‘まだ生きていて’と。
胸騒ぎと共に病院へ向かい、後に伺ったところによるとその日は血圧が何度が
異常に低下したという。一体何が母を生かす方向へ動かしたのかは今もって不
明だがそのとき以来、命に関しての危険は去ったようであった。
母は後遺障害によりまっすぐに立つことであったり日常的な自由は随分と制限
されているし、過去彼女がしてきたように休む間もなく働き続ける・・・とい
う営みはほぼ無理で日中の生活の多くをベッドで過ごしている。
生産的な活動はほとんど出来ないに等しい彼女であるが故に、父の彼女への今
までの感謝と大切にしなくてはという想いは痛いほど伝わってくるものがある
。
それゆえに還暦を過ぎても、父は活動的であり新しいものに果敢にチャレンジ
もしているのであろうとはたから見ていても感じる事がある。
私の彼女に対する‘生きていて欲しい’という願いは、純粋に母を失いたくな
い、という想いだけではなく、その他諸々私には背負いきれないものを置いて
いかないで・・・という想いも多分にあった。
その後、癌も患ったもののやはり、生還した母。
彼女はやはり存在だけで、色々なものを動かしているように思う。
私が病院で最近かかわる事が多いかたは、やはり、生と死の狭間を垣間見られ
た若しくはその狭間を見続けていらっしゃる勇敢なかたが多い。
まだまだ、私にとっては統計処理をされた数字である‘サバイバルタイム1ヶ
月延長’の意味は分かっていないと常々感じる。そこにどのような意味を見出
すのか、実は個々人の問題であるかもしれない、という結論すら自分の中で曖
昧だなと感じている。
ただ、私が与えることが出来るものは実はほとんどないに等しいとしても受け
取るものはとても大きい。
どうあっても、人の人生の美しさだけは感じずにおれない、と思う。
個人が大きな業を成し遂げていようといまいと、どのような人生を生きてこら
れようと。
最先端の医療を受けて生命をつなぐことも、どこかの段階で決断をされ、その
力の注ぎ場所を例えば家族であれ大切な何かであれ、注ぐ事も、それぞれに美
しいという感じ方を私はもらったように思っている。
‘医療’のスキマに感じるその美しさは自分自身だけでなく、他者へ向けた愛
情と優しさが何がしか表現されているせいかもしれないなというのが今出せる
私の精一杯の答えかもしれない。
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