もう、夜も10時を回った頃に、僕はその街に着いた。
翌日の朝、その街から電車で15分ほど離れた場所に急に仕事が入り、どうせ
ならその街に泊まってみようと思い立った。
インターネットで調べてみると、運良く駅前のホテルが空いていた。
僕はすぐそのホテルに予約を入れて、飛行場へと向かった。
その街が大きく変わってしまっていることは、たまたまテレビに映し出された
映像や、電車で通過した車窓から垣間見て知っていた。
しかし、その街に足を踏み入れるのは、10数年ぶりのことだった。
その街は、僕は学生時代から社会人駆け出しの時代を過ごした街だった。
空港からの電車を乗り継いで、ようやくその街に着いた。
電車を降りてみると、先ずは駅舎が見違えるように綺麗になり、駅ビルに変わ
っている事に驚いた。
いくつかの路線が入り込んでいて元々その駅舎は複雑だったが、ハンバーガー
ショップやコンビニエンスストアをはじめとするテナントが入っていて、僕に
は駅自体が更に複雑になっている様に思えた。
その街に住んでいた頃いつも使っていた改札口の近くに今晩のホテルはあるは
ずだった。僕は、その改札口に出ようとしたが、どこをどう通っていけばよい
のかわからない。
僕は、仕方なく人の流れに沿って足を運んだ。
そうして、僕はその駅で一番大きな改札口に出た。
僕は、改札口を通り抜け、ホテルのある側の駅ビルの出口へ向かった。
駅ビルから出て目の前に広がったのは、僕が暮らしていた頃と同じ道路が走り、
それに沿って立ち並ぶ当時と同じようなビル群だった。街の面影は、そんなに
は変わっていない。
懐かしいなぁと感じたが、しかし、そこから見える店の看板は、殆ど全て入れ
替わっていた。
携帯電話ショップ、インターネットカフェ、焼き肉のチェーン店、居酒屋のチ
ェーン店・・・。
そう、十数年前には、携帯電話なんて無かったなぁ・・・と、ふと思う。
昔の記憶を辿って、線路の高架沿いに今晩のホテルに向かう。
高架下は綺麗に整備されて、昔のうす汚れた面影はなく、新しくできた綺麗な
お店が立ち並んでいる。中華料理のチェーン店、バー、居酒屋など、今では都
会の駅界隈で普通に見かける光景と変わらない。
しかし、道を挟んでその反対側には、昔ながらの古い雑居ビルが建ち並んでい
た。
不動産屋、小料理屋、喫茶店、そこから入り込む薄暗い路地の奥には、怪しげ
なネオンサインが輝いている。この街で暮らしていた頃の光景が、そこにはま
だ残っていた。
「えっーと、確かこの辺りにとっても美味しい、辛口の立ち食いカレー屋があ
った筈なんだけど」
丁度夕食を摂っていなかった事もあり、僕はもう一度その味を味わってみたい
と思った。
昔の面影を残すその光景の中、カレー屋を探してみたが、見つからない。
行き過ぎたのかと思い、道をもう一度戻ってみるが、やっぱりない。
もう随分と薄らいでいる記憶を辿ってみると、その場所はカフェ風のお店に変
わっている様だった。
ホテルは、すぐに見つかった。
真新しい建物だった。
チェックインしながらフロントで尋ねてみると、おおよそ半年前ぐらいにオー
プンしたとの事だった。
さてどこで夕食を食べようかと思いつつ、ホテルを出た。
出てはみたものの、今はどこにどんな店があるのかわからない。しかも遅い時
間である。
昔の記憶を辿りながら街をさまよい歩いていて、ふと思いついた。
否、本当はこの街に来ようと思ったときから、心のどこかにその思いがあった
のかも知れない。
僕は、当時僕が暮らしていた家に行ってみたいと思った。
僕が暮らしていた家は、駅から歩いて20分ぐらいの場所にあった。
昔ながらの懐かしいわずかな店と、新しく見る多くの店が道の両側に並ぶその
街の繁華街を、懐かしさを感じながらゆっくりと抜け、住宅街に向かう。
道が細くなり、夜の静けさに包まれた住宅街に入る。
道の両側に住宅が立ち並ぶその光景は変わってはいないものの、新しく建て替
えられた建物がそこかしこにある。
当時、僕が暮らしていた家は2階建ての4戸が入る木造アパート。建物自体も
結構古いものだった。
新しく建て替えられたそんな建物を見ながら、
「まだ残っているのだろうか?」
と思いながら道を進む。
静寂に包まれた住宅街の中、もうほとんど人通りは無い。
稀に、犬を散歩させている人、仕事帰りのサラリーマンなのだろう背広姿の男
性などにポツリと出会う。
街の懐かしさからだろう、出会ったそれらの人に何か声を掛けてみたくなるが、
「待て待て、変な奴だと思われるぞ」
と思いとどまる。
僕は夜のしんとした空気を吸い込みながら、少しばかりの緊張と、少しばかり
胸躍る気分を感じながら、僕が暮らしていた家に向かって歩き続ける。
大きな国道を渡る所まで来た。
この国道を渡った先を少し行くと、僕が暮らしていた家がある。
その交差点の角に、昔は保険会社の看板の掛かった小さなビルがあったが、今
はコンビニエンスストアにその姿を変えていた。
しかし、それを除けば大きくは変化していない。昔懐かしい光景がそこには広
がっていた。
交差点を渡り、いよいよ僕が暮らしていた家に近づいてきた。
当時からあったクリーニング店が、今もそのままの姿である。
「何の会社?」と思っていた会社が、相変わらず何の会社かわからないままで
そこに建っている。
そして少し「くの字」になった角を曲がると・・・その少し先に、僕が暮らし
ていたアパートが当時の姿のまま姿を現した。
「あった!」
僕は心の中で思わず叫んだ。
僕が暮らしていたのは、道に面した2階の角部屋だったのだが、そこには煌々
と灯りが点いていて、見知らぬ誰かが暮らしていた。
僕は遠目にその部屋を眺めながら、当時僕がそこで暮らしていた時の様々なで
きごとや光景を思い浮かべた。
希望に満ちあふれて最初にこの家に引っ越してきたこと。
朝、階段下に置いた自転車に飛び乗って大学へ通っていたこと。
ここから家庭教師のアルバイトに通ったこと。
大学院を受験するために、夜遅くまで勉強していたこと。
期待と不安が入り交じりながら、何かを掴みたいと仕事に打ち込んでいた頃の
こと。
仕事に疲れ果てていた頃のこと。
病気で2ヶ月間入院し、退院してこの家に帰ってきたときのこと。
そして、この家を出ていく時のこと。
様々な過去の情景が僕の頭の中を巡っていった。
思い返せば、人生には様々なできごとがあるものだ、と思った。
いつも良いことばかりがあった訳ではない。そして、いつも前を向いていたわ
けではない。でも、こうやって今の自分に自然と辿り着けたのだ、と思った。
僕は、その煌々と灯りの点いた部屋の住人に何となく親近感を覚え、心の中で
エールを送った。いや、ひょっとしたら当時の自分にエールを送ったのかも知
れない。
そして僕は、夜の住宅街の静寂の中、もと来た道を戻り始めた。
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